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【小論文解答】:2017年/獨協医科大学/医学部/2月6日分

(問1)
「見る」は目の専売特許ではなく、視覚障害者でも特定の条件下で対象を「見る」ことは可能だ。その場合視覚障害者は日本語の慣用的な使用として自然だからではなく、彼自身の主観的な経験や実感を指すために「見る・見える」という言葉を用いる。もともと「見る」という行為は視覚以外の器官を用いても可能であり、想像力を働かせ特定の能力と器官とを結び付ける発想を捨てることで、見える人と見えない人の類似性が見えてくる。(199字)

(問2)
 本文を読んで、私は「見る」ということは自己の「感度」を上げ、状況や対象を理解することなのだ、という印象を持った。冒頭に「おでこ」によってリスの存在が「見えた」視覚障害者の例がある。もちろん私たちが普段見ているような「リス」の姿が見えているわけではないが、ビットマップ上を移動する刺激が「リス」だと理解することができた時点で「リス」は「見えた」のである。そうした見え方が視覚を通して「見る」ことの代替ではなく、見え方の多様性においては視覚もそれ以外の感覚も等価であると考えている点が筆者の凄いところだと私は考えた。何らかの仕方で状況や対象が理解できれば、それは「見えた」と言ってよい。そうした発想は医師を目指す私にとっても非常に重要である。
 医師が患者をみる場合、「見る」ではなく「診る」という言葉を使う。「診」の字は「よくみる」「懇ろにたずねみる」という意味である。目を通して、言葉を通して、手を通して、データを通して、あらゆる感覚を用いて患者の状態を理解することが「診る」ということなのである。それは器官と能力との関係を固定化しない、という筆者の考えを具現化することに他ならない。患者の言葉に耳を傾け、健康を扱うプロとしての高い職業意識を持って接するからこそ、病気の真の姿や治療法が「見えて」くる。だから私は周りの状況や対象に対する「感度」をこれからもっと磨いていくことが必要なのだ、と考えた。(593字)
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玄武庵

Author:玄武庵
日本の片隅で予備校講師をしながら旺文社(入試問題正解)・教学社(赤本)等で作問・解答・解説等の仕事をしています。小論文は自分の頭で考えて書くことが一番大事ですが、その際の参考にしてもらえるとうれしいです。頑張ってください。(※コンテンツはすべて無料です)

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