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【小論文解答】:2010年/愛知医科大学/医学部/本試験

 私は最後の生き残りである自分が死んだ後にも世界が存在し続けると「想像」することはおかしくないと考える。なぜなら事物が存在することと、それを私が認識することとは、関係を持ちつつも全く同じことではないと思うからである。課題文のフッサールの考えでは、我々が事物の存在を認識する時には「自我」と「他我」との共同作業によって、「現象」として見えている対象の存在を「確信」することになるが、それは単に見ているその瞬間だけの存在を確信しているわけではなく、それが過去にも未来にも存在することを同時に確信しているのである。人類未踏の場所が発見された時、人はその存在を初めて知るのだが、その知には同時にその場所が過去にも未来にも存在することが含まれている。
確かに日々の暮らしの中では、存在していると思っていても実は無くなっているものもたくさんある。しかし時間や場所や世界といった、事物の存在を支える基盤については、自己の認識とは関わりなく生まれる前から存在し死んだ後にも存在することを、人間の限りない生死の繰り返しの中で「人間全体」として学んできたのである。それらは認識を超えた「事実」として受け入れられているものであると私は考える。そして、このような事実を有限な人間が認識する際には「想像」するしかないという意味で、人は人類消滅後の世界の存在を想像し、しかも世界は実際に存在するだろう、と私は結論付けるのである。(595字)

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プロフィール

玄武庵

Author:玄武庵
日本の片隅で予備校講師をしながら旺文社(入試問題正解)・教学社(赤本)等で作問・解答・解説等の仕事をしています。小論文は自分の頭で考えて書くことが一番大事ですが、その際の参考にしてもらえるとうれしいです。頑張ってください。(※コンテンツはすべて無料です)

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