(要約)
九十三歳になって、世間で常識となっているやさしさや思いやりに対して、自分の経験から違うかもしれないと思うことがよくある。バリアフリーについてきかれた時に、注意力の維持のためのバリアが必要だと言っていた私自身も、ちょっと楽な思いをさせてもらうとどんどん能力の衰える方へと甘えてしまおうとする。記憶だって、機械に任せればどんどん頭が衰えていく。体力や注意力の維持には、やはり日々の訓練が必要なのである。(199字)
(論述)
筆者が本文で指摘している「人の体力や注意力は使わなければ衰えるので、何もかも人にしてもらってはいけない」という点について、私は全く賛成の立場である。よって今後高齢者と関わる私たちは、これまで「やさしさ」や「思いやり」という言葉で考えてきた自らの振る舞いを見直す必要があると考える。私たちはこれまで、高齢者の面倒や困難を取り除き、苦痛を軽減することが高齢者にとって「やさしい」ことだと考えてきた。しかし本当は困難や苦痛があっても「自分でできる」ということが人間としての尊厳を保つことであり、それをまわりで見守り、支えることが本当の「やさしさ」なのだと思う。
例えば本文にもあるように、傍から見れば住みづらそうに見える家であっても、当事者には却ってそちらの方が注意力を維持できて良い、ということもある。ならば家全体をバリアフリーにしてしまうのではなく、そうした生活をなるだけ長く送れるように、現在の家の状態をできるだけ保ったまま小さな改変を家に施す、といった工夫が必要となる。また医療や介護においても、高齢者の苦痛を軽減し安全に配慮するために障害となるものを全て排除しようとするのではなく、多少苦痛や困難があったとしても、できることを増やしてゆくための工夫を行うことが重要となる。私も医療人の1人として、そうした高齢者の人生のあり方を評価し、支えてゆくという心構えを持って、温かく見守ってゆきたい。(595字)
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