筆者は良い人間になるためには「共感」を持つべきではないと主張し、その根拠として近視眼的偏見に基づく不公平な道徳的行動をもたらすこと、共感力が他人に悪用されること、そして他人の苦しみの強い感受が疲労や燃え尽きや非効率をもたらすことの3つを挙げる。そして良い人間になるためには理性に基づく意思決定、思いやりと理解、ある程度の距離感が必要であると述べている。
こうした著者に対して私は「共感こそが強い動機を生じさせ、意思決定や行動をもたらすし、真の理性を育てる」という反対意見を想像する。例えば地震や洪水などで被災した地域住民の苦しみに深く共感することで、その地に赴いて自分のできることをしたいという強い動機が生まれ、ボランティアを行うという意思決定と行動をもたらすことがある。それは同じような状況にある他の地域に目を向けさせないという意味で近視眼的で不公平ではあるが、その結果として生じた道徳的行動によって救われる人々も多くいるだろう。
確かに筆者の言う通り、共感の持つ柔軟性が他人から悪用される可能性もある。しかしそれを回避するために身の周りから共感を遠ざけ、「思いやり」や「同情」に差し替えることは「解決」ではなく「回避」に過ぎないと私は考える。他者の苦しみと切り離された他者への思いである「思いやり」や「同情」の方が、逆に「思い込み」や「偏見」をもたらす要因となりやすいのではないかと思う。
共感から派生した動機・意思決定・行動が本当に相手のためになるのかを考え、形にしていく能力が「理性」であって、「共感」と「理性」は切り離すべきではない。人間は具体的な他者の苦しみに共感し、近視眼的で不公平な道徳的行動に全力で取り組み、徐々に視野を広げて理性的能力を手に入れるのであってその逆ではない。自己の理性を真に他人のために役立てるためにも、人は「共感」から離れてはいけないのだ、と私は考えた。(793字)
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