「幸福である」というあり方には主観的な側面と客観的な側面が存在する。主観的な側面で言えば、幸福であるかどうかは最終的には「自分がそう思うかどうか」にかかっている。たとえ客観的には「不幸」と思えるような状況でも、本人が「幸福である」と思っているなら、それは幸福なのだと言える。
一方、客観的な側面で言えば、幸福であるかどうかは戦争の有無、健康や経済、身分や地位などの尺度によってある程度客観的に捉えることが可能である。戦時下と平和時なら平和時の方が「幸福である」し、不健康であるよりも健康である方が「幸福である」と考える人が多い。また貧困と裕福とどちらが幸福であるかと問われたら大半の人が裕福の方が「幸福である」と答えるだろう。
このように、「幸福である」ことには二通りの考え方があって、両者は関係性を持たないかのように見える。しかし実は、客観的な幸福は主観的な幸福の可能性を広げる、という側面も持っているのではないかと私は考える。例えば生まれつきの障害のために歩行ができない人がいるとする。歩行ができなくても主観的な意味で「幸福である」と感じることは当然あるだろう。歩行ができなくても、他の様々な条件がその人に幸福を感じさせることは可能だからである。しかし医療技術が発達し、内的治療や外的補助によってその人が他の人のように歩行が可能になった場合、それは歩行できる方が「幸福である」という客観的な意味での幸福を手に入れたことになる。そして歩行が可能とした様々な出来事がその人により多くの主観的な幸福を感じる機会をもたらす。このようにして客観的な幸福は主観的な幸福の可能性を広げるのである。
医師という仕事は、健康である方が「幸福である」という客観的な幸福感に基づき、患者の健康を推進・回復させることを目的とした職業である。知識や技術のみならず、患者に対する全人的なサポートが、患者の主観的な幸福の可能性を広げることを願って、私も将来医師として努力していきたい。(824字)
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