〔問1〕(※解答例)
思いやりとはデジタルのアナログ化である(19字)
〔問2〕
言葉は有限のものであり、人間の感情を含む外界の無限の多様性を切り分ける過程で、数え切れないほどの潜在的な表現可能性を全て捨象して成り立つので、どれだけ積み重ねても全体性には届かない、という意味での限界がある。よって言葉を伝達された方は言語の隙間から漏れてしまったはずの相手の思いや感情を、自分の内部に再現する努力を行うこと、相手が言語化しきれなかった「間」を読み取ろうと努力することが必要とされる。(199字)
〔問3〕
医師のような職業において、人とのコミュニケーションでは相手のデジタルな言葉をアナログな情報へと読み換えることを大事にすべきであると私は考える。その努力を筆者は文章の中で「思いやり」と述べている。
患者は自己の治療に関して、自分の抱いている不安や困惑を全て言語の形で表出できるわけではない。うまく伝えられる言葉が見つからないので、その代わりに曖昧に「はい」「いいえ」「わかりました」等の簡潔な言葉で済ませることがある。本当は「はい」が全面的な承諾を意味せず、「いいえ」が全面的な拒否を意味せず、「わかりました」が全面的な理解を意味しない可能性があるにも関わらず、それを医師が単純にデジタルな意味での「承諾」や「拒否」や「理解」として処理し、対処を行うことで、結果として患者にとって納得のいかない、QOLを低下させる事態を招く恐れもある。相手のデジタルな言葉の背後に何があるのか。医師はその部分に常に想像力を働かせながら耳と心を傾け、患者から新たな表現を引き出すために質問を行ったり、時間をかけて相手の言葉を待つ、といったコミュニケーション上の工夫を行う必要がある。その工夫ができる心構えのことを、筆者は「思いやり」と呼んだとだと思う。
一方、医師がデジタルな言葉をアナログな情報へと読み換えるには、医師の側にもそれを可能とするだけの「行間を読む素養」が必要である。医師になるまでになされる勉強の大半は「デジタルをデジタルに変換」する作業である。しかし人間同士のコミュニケーションはそうではない。行間を読み取る力を得るには、実際に多くの人とコミュニケーションを行い、失敗も含めて多くの経験を積むことが重要である。また多くの小説を読み、言葉の背後にある心の有様を、作家という専門家から学んでゆくことも大切である。そして人の「ナラティブな生」に対する深い理解と共感が素養を形づくるのだと私は考える。(793字)
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