私の考える「共生社会」とは人々が「対等な存在として共に生きる」という意識を持って互いを尊重し、双方がコミュニケーションをとりながら形成されるような社会である。資料1ではアメリカやオーストラリアを例に挙げつつ、彼らの社会の「対等性」が白人と黒人・非白人系移民との「不平等性」を前提としたものであることが示されている。またマジョリティの人々が規範としての人種的平等を受容しつつ、マイノリティとの接触を回避する「回避的人種主義」を挙げ、差別が潜在化している点を問題視している。
私も筆者の主張に全面的に賛成であり、マジョリティの裁量や寛容さによって成立している平等性や多様性は本当の平等性や多様性ではないと考える。また資料2でも示されている通り、本当の共生とは互いが「支え・支えられる関係」という意味での対等性に基づいて形成されなければならないと思う。そしてそのためには、まずマジョリティの人々が自分たちの「隠れた差別的思考」を自覚・反省し改めた上で、支え合い助け合う存在としてのマイノリティの言葉や思いに耳を傾け、それらの言葉や思いを反映した社会を彼らと共に作っていこうという気持ちを持って生きることが重要なのではないかと私は考える。
現在の社会はLGBTQやノーマライゼーションといった概念が普及し、マイノリティに配慮した社会へと変化しつつあるが、一方で私を含めた多くの人々は、実際にそうしたマイノリティの人々と直接向かい合い、彼らと意見を交わすという体験を持たないことが多い。そのことがマジョリティとマイノリティの間の意識のずれやすれ違いを生んでいるように私には思える。この意識のずれやすれ違いを解消するために、私たちはもっと両者が接触・関与できるような機会を多く設ける必要がある。一方的な思いやりや思い込みではなく、「分かり合い」から始まるのが本当の「共生社会」なのではないかと私は思う。(793字)
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