著者はよい人間や医師になるために「共感」の能力は不要だと述べている。その理由として「他人に共感する」という柔軟性は他の人によって悪用され、特定の人や集団への憎悪といった近視眼的で不公平な道徳的行動へと私たちを導くことがあること、また深く共感すると相手の苦しみに巻き込まれ倦怠感や燃え尽き症候群、効果のない仕事に繋がり、双方に良い結果をもたらさないことを挙げている。よって良い人や医師になるために必要なのは「思いやり」だけで「共感」は必要ない、というのが著者の意見である。
反対意見として想像できるのは「思いやり」は自己の単なる「思い込み」である、というものである。その「思い込み」に基づいて支援を行うことでかえって相手を傷つけることもある。相手の思いに深く共感することによってこそ「思い込み」を離れた支援が行える。著者は「理性」を使用することで共感が提供しないような公平性と中立性に基づく意思決定が行えると考えているが、その公平性や中立性は独りよがりな「思い込み」に過ぎない。その意味で「思いやり」は不要である、という反論が可能であると思われる。
これらの相反する意見に対する私自身の考えは「思いやりなき共感も、共感なき思いやりも、相手への適切な支援に結びつかない」というものである。良い人、良い医師とは、他者への深い共感に基づく思いやりの気持ちを最良の仕方で組み合わせて形にできる存在ではないかと私には思われる。良い医師とは患者への思いやりを十分に持ち合わせた存在であるが、その思いやりは患者の人生観や価値観、自己決定権に対する深い共感・尊重に基づくものでなければならない。共感をしても相手に巻き込まれず、思いやりを持っても思い込みにはならない。良い人や良い医師に必要なのはそうした精神の「健全さ」ではないかと私は思う。私もそうした「健全さ」を持って医療活動を行っていきたい。(787字)
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