私たちは何かを失うか、または失いかけているときに、そのものの尊さを身にしみて知るものである。その中でも人間の生命の働きそのものからわきあがる「いのちのよろこび」は、他のものによって与えられるよろこびよりもはるかに強く、長続きする。だが文明の進歩は大切な生命の働きを弱め、そこからくるよろこびを奪い去るおそれがある。それ以外にも規格化された教育制度のレールや、競争を基盤とする産業社会の仕組みは、人間同士いのちのむつみあいを困難なものにしている。しかしこうした現代であればこそ、わたしたちは何ものにもかえがたい生命の値打ちにめざめうるのではなかろうか。そのためにも、私たちは心身の働きを正しく育て、強めてゆく工夫をしたいものである。
この文章にもあるように、わたしにとっての「いのちのよろこび」もまた、まず生きていることそのものなのだと思う。ただ私自身は通常「ただ生きている」ことに対してよろこびを感じることはほとんど無い。仕事や勉強といった様々な雑事に追われ、愚痴を言ったり悲しんだりして、貴重ないのちを費やしている。そうした生活の中で「いのちのよろこび」を感じることが出来るとすれば、それは何かをやり遂げた時だと考える。今まで出来ないと思っていたことが努力の積み重ねによって出来るようになる。その時自分自身が一回り大きくなったような気がして、これまでの自分の生き方を素直に肯定出来る気がする。そうした瞬間に私は「いのちのよろこび」を感じるのだと思う。しかしよく考えてみれば、出来ないことが出来るようになることは、同時に人に喜びを与えることでもある。スポーツ選手であっても医師であっても、人が出来ないことが出来るからこそ、人を幸せに出来るのである。この意味で、私は人を幸せにするために努力する自分のいのちのありようそのものを「いのちのよろこび」として喜んでいるのだ、と結論付けることが出来る。(793字)
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