筆者はこの文章の中で、生物の生死を厳密に定義すれば生は受精が成立した時で死は身体を構成するすべての細胞が活動を停止した時となる、と述べた上で、人間は最先端の臓器移植や再生医療を推進するために、「脳始」「脳死」という形で自分たちの生命の時間を意図的に縮めてしまっている、と述べているが、私はこうした筆者の考えに反対である。
まず「人の生と死の定義」を筆者のように行うべきではない、と私は考える。人間の生はエントロピーの増大といった物理法則によって説明できる現象ではなく、個人の実感や、人々の共通認識といった約束事によって決められるものである。実際に自己の生の始まりが受精の成立時であると言われても、大半の人はそれによって自己の受精卵としての生を実感することはない。同様に人々はすべての細胞の死が確認できるまでその人はまだ死んでいない、と考えることもない。筆者は生死を物理法則になぞらえることで、私たちの持つ生の実感から私たちを遠ざけ、生死を不必要に客観化したのではないか、と思われる。
私自身は、生は自発呼吸や意識活動が早産したとしても可能となる30週前後からであり、死は前記の活動が不可逆的に不可能になった時点であると考えている。これは筆者の言う「脳始」「脳死」の時期に近い。だから脳始以前や脳死以後の胚や臓器を、すでに生命活動を行っている人間のために利用することに、生命倫理的な問題は発生しないと考える。
だが一方で、私たちが人間の生死をそのように決めたからと言って、胚や脳死者の臓器を物のように扱うこともないはずである。生命ではないものの、生命の気配を感じるものとして、私たちは胚や臓器に何らかの尊厳を見出す。その意識が逆に、人間の生死に対する過剰な解釈を防止し、再生医療や臓器移植の暴走を抑止することに繋がるのである。だから最先端科学技術は私たちの生命の時間を延ばしても縮めてもいないのだ、と言える。(792字)
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