この作品は、「いつもセトモノ」である「わたし」がやわらかいこころをもちたい、という切なる願いを込めて書いたものだと私は考える。人との関わりは相互理解と思いやりによって成り立つが、何かの拍子に心が硬くなることがある。自分は間違っていないと考えたり、たとえ間違っていても謝りたくないと思ったりする。あるいは突然納得できないことを相手に言われたりする。そうした時に人は心が硬くなる。硬い心をぶつけ合ってお互いが一歩も引かなければ、人間関係は壊れてしまう。そして壊れてしまった後で「本当は許せないことじゃなかったのに」「あの時謝れば仲違いせずに済んだのに」と後悔する。しかし後悔しても後の祭りである。壊れたセトモノは元には戻らない。「わたし」はそういう経験を積み重ねてきたのだろう。それでもやはり人と仲良くできる人間になりたい。「やわらかいこころをもちましょう」は「わたし」自身に向けられた自省の言葉なのである。
また「看護職に就こうとするわたし」は「やわらかい方」を目指して生きていかなければならないと考える。患者は基本的に「セトモノ」になりやすいと思われる。病気やケガで苦しむといった身体的な苦痛に加え、これまで当たり前のようにできていたことができない、生に対する不安が拭えないといった精神的な苦痛にも苛まされる。健康な自分たちにとっては何でもない言葉や振る舞いでも、彼らにとっては気に障ることもあるだろう。そしてそれを看護職の人にぶつけることもあるだろう。看護職の人はそうした患者の理不尽さの背景を深く理解し、共感し、受け止めるだけの心構えとスキルを身につける必要がある。その意味でこの詩は「看護職としてのあるべき姿」を指し示しているように私には思える。私はこの詩との出会いを大事にし、「座右の銘」として心に刻んでいきたい。
しかしそうは言っても私も不完全な人間なので、時には「セトモノ」になって患者とぶつかってしまうこともあるだろう。そうなった時にはいったん心を静め、この詩を心に浮かべて、自戒し自省しながら、また真摯な気持ちで患者と向き合えるようになりたい。そうやって少しずつ、良き看護職になれるよう頑張っていくつもりである。(888字)
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