いくら努力してもどうにもならないことがある。人はその時目指していた目標を諦める。はじめから目標などなかったことにしたり、他の目標を見つけるまで気を紛らわせたりして、挫折と苦痛の時間をやり過ごす。諦めることですがすがしい気持ちになったという人もいるが、私がこれまで何かを諦めた時は大体落ち込み、思い出すことさえ嫌になった。
「諦める」ということは、医師にとってはより切実なことだと私は思う。医師としての存在価値は「治療する」ことにあると考えている医師にとって「もうこれ以上治すことができない」という状況は受け入れ難いことだろう。医師としての自分の限界を知り、患者に対する治療を諦めることは、自分の存在価値がなくなることと同じだからだ。しかし「諦める」ということは医師にとって大切なことだと私は思う。自分の限界を知ることは、その限界を超える新たなきっかけにもなるし、自分の力を過信して患者に困難な治療を課して苦しめ続けるという過ちを犯さずに済む。その意味で諦めることは「糧」でもある。
しかし患者にとって「諦める」ということは全く異なる意味を持つ。医師が治療を諦めることは、もう自分が治ることはないという厳しい現実を受け入れること、そして自分の人生がもはや意味をなさないという絶望を受け入れることを、半ば同意なく強いられることになるからである。患者にとって、命はこの命しかなく、人生もこの人生しかない。それを諦めることが患者の「諦める」である。そのつらさは例えようもないほどだろう。
だが医師が治療を「諦めた」からといって、患者はそこで人生が終わるわけではないし、残りの人生が無意味になるわけではない。もし医師の仕事が「治療」ではなく「患者の人生を支えること」であるなら、もはや治療が不可能になった時こそ、医師としての最後の仕事が始まることになる。医師はたとえ治療を諦めても、患者の人生を支えることは諦めてはならないと私は思う。そのことの重みに耐えられるように努力を重ねていきたい。(813字)
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