著者は死に直面しつつ、残った時間をどう生きるかは自分次第であり、自分は最も豊かで、最も深く、最も生産的な方法で生きなければならないと述べる。これは私自身の死についての考え方とよく似ている。死を穏やかに受け入れられるかどうかは「生をどう納得できる形で過ごせたか」ということと相関していると私は思う。そしてその納得は「自分の意思で自分の人生を選択する」ことによって得られる。またその選択には「自分自身の価値観や人生観」が大きく影響する。著者は「すべての人間がかけがえのない個人であり、自分自身の道を見つけ、自分自身の人生を生き、自分自身の死を死ぬことは運命である」と述べているが、まったく同感である。死はあくまでその人自身のものであり、その「死の自己所有性」は残された時間の自己決定権の所有によって保証されると私は考える。
一方著者は、同時代に生じている様々な社会的問題にはもはや注意を払うつもりはないと述べているが、この点は私の死生観と相違する。何故なら私の「穏やかな死」は自己決定権だけではなく「社会とのつながり・他者とのつながり」によってももたらされるものだと考えるからである。著者は世界で起こっている様々な問題を「自分の問題ではなく、未来(の人々)の問題だ」と主張する。しかし未来は現在によって作られるものであり、私はどのような状態であろうとその「現在」にコミットしているはずである。若い人たちの将来の選択は、今を生きる人たちの興味や関心・判断や行動に影響される。人生の終わる瞬間まで社会のことに関心を持ち、その思うところを若い世代に伝えるのも「未来を創る」ことの一部なのである。そして自分がそうした存在として最後まで社会に貢献できているという思いもまた、納得のゆく死や穏やかな死につながる大きな要因なのである。
つまり自己決定権と社会とのつながりの両方が「納得ゆく死」の条件だと私は考える。(795字)
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