「自己犠牲」という言葉には、相反する二つのイメージが存在する。一つは「献身」というポジティブなイメージで、もう一つは「犠牲」というネガティブなイメージである。最近は被災地支援のために現地でボランティア活動を行う方々のニュースをよく目にする。自分の時間や労力を、自分のためにではなく他人のために使うその動機の美しさや行動力は、まさに「献身」というポジティブなイメージを如実に表している、と私は考える。
一方で、同じボランティアであっても、それによって失われる自分の時間や労力、金銭面に意識が傾けば、そのイメージはネガティブなものになる。ボランティアを行うことによって相手は助かるし幸せになるが、自分自身は結局損するだけなのではないか。こうした考えを持つ人々はボランティア活動のような「自己犠牲」を要求する活動を好まないし、行ったとしても楽しめない。またそうした考え方を一方的に否定することもできない。
しかしより広い視点で考えてみると、仕事を含めた人間活動の大半は実質的に相互的な「自己犠牲」によって成り立っており、自分が今こうして普通に暮らしていけるのも、誰かの「自己犠牲」のおかげなのである。親をはじめとした家族、学校や塾の先生、友だち、また私の知らないところで私を気づかい支えてくれる多くの方々。そうした方々の多くの「自己犠牲」が自分を支えている。そうした自覚のもとに私もまた快く「自己犠牲」を行うことが彼らに対する恩返しになる。この相互性によって社会生活は成り立つのである。
医師は「自己犠牲」的な仕事の最たるものである。時間を問わず駆け付け、治療を行い、命を救う必要もあるし、寝る間を惜しんで勉強し続ける必要もある。それは大変なことであろう。しかしそれは「損」でもなければ「不幸」なことでもない。私は既に他者から多くの「自己犠牲」をもらい、私の「自己犠牲」によって他者が幸福となる。それを自己の幸福として生きていける人間になりたい。(815字)
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