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【コラム】:小論文における「思う」「考える」の使用について(2)

  「論文」において表明されるべきは「事実」であって「意見」ではない。これは前回の結論として私が述べたことである。では「小論文」において表明されるべきは何なのか。それと「思う」「考える」の使用にはどのような関係があるのか。これが今回の考察の内容である。

  「小論文」の目的は「論文」の目的とは全く異なる。「小論文」の目的は「ある事柄に対する生徒の適性を把握すること」である。もっと厳密に言うならば「大学の学部が、その学部として要求している生徒の資質を、対象とする特定の生徒が満たしているかどうかを確認すること」ということになる。このブログで扱っているのは「医系小論文」なので、それに即して具体的に言い換えると「医学部が、医学部として要求している生徒の資質を、対象とする特定の生徒が満たしているかどうかを確認する」のが医学部における「小論文」の目的なのである。ここで問われている「資質」とは「客観としての資質」と「主観としての資質」の交差する点上に存在するものである。分かりにくいと思うので以下で詳しく説明する。

  「客観としての資質」とは、言ってみれば「医師という職業に就こうとする者が共通して所有しておくべき客観的属性」のことである。具体的には「人間性に関わる資質」と「論理的思考力に関わる資質」、および「表現力に関わる資質」のことを指す。この際の基準はあくまで「医師という職業」の側にあり、それは客観性を持つものである。その資質の所有度に関しては、最低限この程度は所有していて欲しい、というレベルでの「絶対所有度」と、他の生徒と比較した際により多く所有している、というレベルでの「相対所有度」の二つに分けることができる。

  しかし問題なのは、こうした「絶対所有度」であれ「相対所有度」であれ、それらは「この生徒」という特定の個人の「主観の表明」によってしか確認できない、ということにある。これは考えてみれば当たり前のことで、そもそも生徒の小論文の内容に個体差が存在しないなら、「医系小論文」という科目は生徒の合否に関与する手段とはなり得ない。あるテーマに対する自分なりの「思い」があるかどうか、そのテーマに対して論理的に「思考」する能力があるかどうか、その「思い」と「思考」を的確に表現する「表現力」があるかどうか。それらを総合的に、かつ一括して確認することのできる方法があるとすれば、それは「私は~と思う/考える」「何故なら~だからである」という言葉から始まる一連の表現の組み立て方を見ること以外にはない。「主観の表明」が存在しなければ「この生徒」が医師としての資質を有しているかどうかは確認できないし、「理由」とそれを支える一連の記述が存在しなければ、「この生徒」の論理性や表現力を確認する術はない。

  こう述べると、恐らく以下の反論が予想される。すなわち「他教科においては、思うや考えるといった表現を用いずに論理性や表現力を確認することができる。その意味において他教科と小論文との差は存在しない。思うや考えるといった表現は、伝達しようとする思考内容の客観性を損ね、説得力を減少させる。断定表現を用いることで自己の思考内容の客観性を保証することが、自己の思考内容を採点者にアピールする可能性が高い。よって思う・考える系の表現は使用すべきではない」といった反論である。

  これに対して私は以下のように答える。すなわち「(医系)小論文において求められているのは、個人としての価値判断であり、真偽の判断ではない。価値そのものは事柄自体に属性として備わっているものではない。事柄に対して各自が別々に所有しているものである。よって価値判断の表明は、それが〈主観による判断であることを明示する表現〉によってなされなければならない」という答えである。そして、この「主観の客観性」を判定するための科目として、「小論文」は存在するのである。それが先ほど私が「交差する点上」と述べたものである。

  このことを具体例を用いて説明してみる。「延命治療についてどう思うか」というテーマが出されたとする。これは端的に「君はどう思うんだい?」と聞いているわけだから、答えは「私は妥当だと思う」「私は妥当ではないと思う」「私は状況に応じて異なる判断をすべきだと思う」「私は本人の意思を尊重すべきだと思う」という形になるはずである。これを「妥当である」「妥当ではない」「状況に応じて異なる判断をすべきだ」「本人の意思を尊重すべきだ」という表現にすると、「私が思う」という主観性に関わる部分が欠落するので、それが発言者当人の思考内容であるかどうか、という検証ができなくなるのである。検証できなくても、それが正しければ良いではないか、という考えもあると思うが、そもそも「延命治療」に関して「正しさ」など存在しない。ここで求められているのは「価値判断」であり、様々な価値の中で「自分が主観的に選択した価値判断」の表明と根拠の説明が、「その人の主観的資質の客観性の度合い」を露わにしているのである。これは通常の「論文」が求めている「客観性」の基準とは性質を異にする。これを簡単に言い換えると「『事実』としての客観性と『意見』としての客観性は同じではない」ということになる。小論文において表明すべきは「『事実』としての客観性」ではなく「『意見』としての客観性」なのである。そして「『意見』としての客観性」は「主観の表明」によってのみ確認可能なのである。従って「小論文」において「思う・考える系」の表現は「主観の表明」に該当する部分において必須である、というのが私の結論となる。

  ここまでは、「小論文」における「思う・考える系」の表現の使用について、やや抽象的・観念的な側面から話を進めてきた。次回は実際に出題されている小論文課題の出題の傾向、および実際に本番の試験における試験官からの「評価」なども絡めて、より現実的な観点から説明していく(続く)。
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玄武庵

Author:玄武庵
日本の片隅で予備校講師をしながら旺文社(入試問題正解)・教学社(赤本)等で作問・解答・解説等の仕事をしています。小論文は自分の頭で考えて書くことが一番大事ですが、その際の参考にしてもらえるとうれしいです。頑張ってください。(※コンテンツはすべて無料です)

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