2015年のとある私立医科大学の面接試験に関する資料を、とある所で見せてもらった。そこで生徒の描いた奇妙な絵が目に留まった。その大学は面接の最後に写真や絵を見せて、それについての感想を求めるのだが、その絵を見て私はあることを思い出したのである。
絵の内容は以下の通りである。①:絵画の中央に医師。背中には口の空いた袋を背負っている。②:右端には大きな手が描かれていて、その手にはお金が握られている。③:そのお金は医師の背中の袋に入れるためのものらしい。右端の手の主は患者もしくはその家族であると推測される。この絵に関して大学側は「この絵はどのように見えるか」→「描いた人はどう思って描いたか」という2つの質問を行っている。
その絵を見せられた生徒の反応は、概ね以下の通りであった。「医療はやっぱり金である」→「自分はより理想的な医療を受けたいと思って描いた」あるいは「患者は医療をサービスとしてお金で買っている」→「医師はあまり患者との関係を大事にしていないということを風刺したい」(個人的判断で多少ぼかして書いている)。
もちろん、絵の解釈はどのようなものであっても基本的には構わない。それが医療人の資質をアピールするものであれば、多少ずれても問題はないのである。
私が思い出したのは、「オノラリア」という言葉であった。この言葉に出会ったのはとある国立大学の二次試験の問題であった。出典は村上陽一郎の著した『科学者とは何か』(新潮選書)である。そこに書かれていたことを簡潔にまとめてみる。
●:中世ヨーロッパには「オノラリア」という習慣があった。
●:医師は背中に口の空いた袋を背負って患者の家へ治療にやって来る。
●:治療を終えると患者やその家族は、袋の中にお金を入れる。
●:医師は何か所も家を回るので、誰がどれだけのお金を入れたのか知らない。
●:患者や家族が袋にお金を入れるのは「医師という仕事に対する名誉の尊重、敬意と尊敬の表明」である。
●:医師という職業は、生まれつき高い才能や能力を持った者が、「神からの召命」に対して、自らの自由意思によって応じることで成立する。
神は才能のある人間に「人のために役立つ特別な仕事を、私(神)に代わってやってみないか?」と呼び掛ける。それに対して「あなたの代役として、人々を救う尊い仕事を引き受けさせて頂きます」と応じて医師になる。もちろん、神の代役なのでその使命や責任は重大である。そのような大役を買って、自分たちを助けようとしてくれる医師に対して、患者やその家族は感謝と敬意をこめてお金を入れるのである。
医師にしてみれば、人は神の前においては皆平等なので、医師自身の価値観によって患者を選ぶ(例えば金持ちだけを治療する)ことはできないし、あってはならない。また、神の召命としての医療行為に対して、自らの価値観で金額を設定することはできないし、あってはならない。だからお金をもらう時に、医師は背を向けていなければならないのである。
また患者やその家族にしてみれば、医療行為に見合う金額を支払える人は、そう多くはなかったであろう。しかしそのような自分たちのところにも、医師は快くやって来て一生懸命治療してくれる。払える額は少ないが、その分「感謝と敬意」を込めて、背中の袋にお金を入れたのだ。
ここにあるのは「理想的な医師と患者の関係」であろう。医師は自分の責務を十分に自覚し、神の代役を果たす。患者とその家族はそうした医師の志(人間性)と技術(努力)に最大限の感謝と敬意を払う。そのような関係を患者と築く医師としての自覚があるかどうかを、その大学は知りたかったのではないか、と私は思う。
神無き時代の医師は「使命の根拠」を失っているので、「召命に値する仕事」として医師という職業を考えるという発想は、恐らくないだろう。それでも「社会のため、人のため」に一生懸命働く尊敬すべき医師は数多くいる。一方で、私利私欲・名誉欲・金銭欲に走り、患者の命を塵ほどにも大切にしない医師も、少なからずいる。しかし、そのような多様性は他の職業でも言えることだろう。私は曲がりなりにも教職にあるが、教職に携わる人間も、善悪様々である。具体例を挙げたいが、シャレにならなさ過ぎるので止めておく。
では患者の方はどうだろう。医療行為を「サービス」とみなし、金よりも医療行為を下に置く。「金払ってんだからちゃんとやってくれ」と悪態を吐くが、感謝や敬意は微塵も覚えない。人によっては支払う金さえ自分の金ではないのに、必要のない点滴を週3回打ってもらったりする者もいる。これもまた、教育業界でよく見かける光景である。「金払っている云々」は実際言われたこともある。もちろん、医療行為に対して感謝と敬意を示す多くの患者もいる。いずれにせよ、提示された絵の光景にある医師と患者の関係から、現在は程遠いところにあると言える。
何が原因なのかを挙げるのは、簡単だろう。いやむしろ理由が有り過ぎて、逆に難しいとも言える。医師が問題なのか、患者が問題なのかを挙げることは「鶏と卵の問題」と同様に意味がない。答えなど出るはずもない。また、どうすれば両者の関係が改善するかについても、明確な答えは出ない。出たとしても、それは元の理想の状態に戻ることではないだろう。善かれ悪しかれ、人は今ある状況と積み重ねられた歴史の上で、常に新しい答えを(最善でなくても)見出すしかないのである。
ちなみに、大学の質問に対して、私ならどう答えるだろうか考えてみた。
●:「この絵はどのように見えるか」→「医師はお金に背を向けて、自分の職務を全うしようとしている」
●:「描いた人はどう思って描いたか」→「そういう医師であって欲しいという願望を込めて描いた」
となるであろう。医師という仕事は「神からの召命」であり、患者の謝礼は「神からの報酬」である。したがって医師は「神からの報酬」に対して、その額を問うという畏れ多いことはできない。もちろん、これは理想論に過ぎない。仕事の報酬額を常に気にして生きている私が、こうした理想論を医師に投げかける資格はないだろう。
しかし「神がいる振りをする」ぐらいの気持ちを心の片隅に持って生きてゆくのは、大事なことなのではないかと思う。神無き時代の「職業意識」とはそういうものではないか、と私は自戒を込めて思うのである。
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