例年、画像や写真を用いて何らかの「解釈」を要求する、という出題形式が続いている。医学部小論文の出題形式として異端中の異端であり、その奇抜さゆえに医学部受験生以外の人々にも面白がられ、様々な人々がその意図を論じている。中には非常に難しいことを考えている方もいるようだが、実際に数年分の解答を作成してみて、実はこの大学は非常にシンプルなことをずっと問い続けているのではないか、という結論に至った。それが何かを語る前に、まずはここ数年の出題を確認する。
●2016:ガラス窓に張り付いた子どもの写真。彼の見ている外の世界(1950年代アメリカ)の様子について。
●2015:駅の地下通路の出口付近の写真。階段を上る男性客のバックショット。2つの風船。感じたこと。
●2015:波打ち際の写真。「The sea belongs to whoever sits by shore.」。海辺に腰掛けて思うこと(センター)。
●2014:異様に比率のおかしい湖畔の写真。湖畔の半分は闇であり、おぼろな光。「心の秘境」。
●2013:2頭の子馬の絵。丘の上で振り返る。谷は霧で覆われている。「静寂」の意味を問う。
(※いずれも個人的な解釈を加えて要約している)
これらを見ても、これといった共通点は見当たらないように思える。しかしそう思えるのは、これらの写真や絵を見て「なぜこれが医系小論文として出題されているのか」と考えているからである。そうではなくて、「そもそも医系小論文とは何なのか」ということを先に考えた上でこれらの出題を眺めると、共通点が見えてくるのである。
医系小論文とは、「医師としての資質を問う」ことを目的としている。そして医師は「医師と患者との関係」において自らのあり方を考える必要がある。私が自分の解答を書く際に用いる函数はこの二つだけである。実際にこの二つの函数を用いて、先程の各問題を分析してみる。
●2016:子ども=医師/外の世界=患者
●2015:男性客=医師/風船=患者、もしくは医師と患者
●2015:海=医師/海辺の人=患者(センター)
●2014:おぼろな光=医師/青空と闇=患者(外面と内面)
●2013:大きい方の子馬=医師/小さい方の子馬=患者(逆でもよい)
いずれもそれぞれ「医師」と「患者」に置き換えられる何物かが存在することが分かる。置き換えられるということは、この時点でこれらの出題が「医系小論文」として成立する可能性を持つ、ということを意味する。ここで、さらに「医師と患者の関係」おける医師とは何か、患者とは何かということを考えてみる。
●「患者」:病める者、苦しむ者、悩む者、弱き者、共感を求める者
●「医師」:治す者、支える者、努力する者、共感する者(もしくはすべき者)
これらを上記の出題に全て当てはめて分析してみると、
●2016:子ども=医師(共感すべき者)/外の世界=患者(苦しむ者、悩む者、弱き者)
●2015:男性客=医師(共感すべき者)/風船=患者(共感を求める者)
●2015:海=医師(治す者、支える者)/海辺の人=患者(苦しむ者、悩む者)
●2014:おぼろな光=医師(支える者、共感する者)/青空と闇=患者(苦しむ者、悩む者、弱き者)
●2013:大きい方の子馬=医師(支える者、努力する者)/小さい方の子馬=患者(病める者、苦しむ者、悩む者、弱き者)
という形でそれぞれ完全に当てはめることができる。よってこれらの出題に共通しているのは、
●病める者、苦しむ者、悩む者、弱き者、共感を求める者である「患者」に、治す者、支える者、努力する者、共感する者(もしくは すべき者)である「医師」がどう向き合うべきなのか。
という医系小論文の原点である非常にシンプルなことを問い続けていることが分かるのである。これを2015年のセンターの出題に即して言い直すと「The doctor belongs to patient.」ということになる。医師は患者と共にあり、医師は患者に寄り添う者である。そのことを理解しているかどうかを、つまり「医師の資質」を持っているかどうかを、この大学はずっと聞いているのだと私は思う。
こうしたことに受験生が自分の力で気付くためには、出された問題を漠然とではなく、細かく分析する習慣を身に着けることが重要であると思う。写真や絵の中にある様々な「小道具」、「場所や時間・状況」は、それぞれ何らかの「関係や概念」を「象徴」している。そういう気持ちで細かく見ていくと、色々見えて来るものがあるのではないかと私は考える。
コメント