※(問題文の現物は確認できないので、該当する文章と思われるものを検出し、それを基に書いています。)
筆者は本文において、「人間的な食事の時間」とは本来相手とじっくり向かい合い、気持ちを通じ合わせながら信頼関係を築くためのものであり、平和な関係であることを前提として、相手と同調しつつ共に生き共に歩もうという気持ちを育むべきものであると論じている。その上で、現代の科学技術や流通革命が食の課題を個人の自由になるように解決してきた結果、個食が増加し共感能力や連帯能力を低下させた、と警告を発している。
私も筆者の意見に大いに賛同する。筆者は「食事」を採り上げて他者との関係の維持や調整の重要性を述べているが、世の中には他にもこの「食事」と同じ意味を持つものが色々ある。例えば狭い道をすれ違う場面でも、限られた資源をどのように分かち合うのかを話し合う場面でも、私たちは「食事」の場面と同じように「人間らしさ」すなわち共感能力、連帯能力が問われている。それは言い換えれば「互いに相手の幸福を自己の幸福とする能力」と置き換えられる。効率性を重視せず、個人の自由裁量では決められない状況の中で、この「人間らしさ」を発揮できるか否かが、個人の価値を決めるのだと私は思う。
しかし一方で、筆者が否定する「科学技術や流通革命」の中にも、私は共感能力や連帯能力を育むものがあると考える。数年前の東日本大震災の時、日本人全体の共感意識や連帯意識を喚起したのはメディアの情報であり、利他的行動を実現できたのは流通システムのおかげであった。つまり人間は基本的に「利他的」な性質を持っていて、それは食事に限らず様々な場面で発現する可能性を持っている、というのが実際の状況なのである。
私は将来医師として働くつもりである。診療や治療の場面もまた「食事の時間」と同様に個人の自由裁量の及ぶところではない。そうした状況の中で自分自身が率先して他者の「人間らしさ」を触発できるような存在であることが、今の私には求められていると思う。(787字)
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