「表現の自由」とは、個人が外部に向かって自らの思想や主張を表現する自由であり、民主主義社会の中で最も重要とされる権利である。この自由が最も重要とされるのは、それが人間が人間らしく生きるために最も必要なことだからである。自分の思っていることや言いたいことが言えないような社会の中では、個人が自分らしく生きることが許されない。実際、圧政下に置かれた時代、戦時体制の中で言論が統制された時代では、こうした自由を奪われ、自己の固有性を否定されるような状況が多々あった。現在は、大多数の国々では個人の人権が尊重され、表現の自由も保障されているという意味でいい時代である。
しかし現在でも少数派や弱者と位置づけられる人々は「表現の自由」を思うように行使できない状態に置かれやすい。少数民族という大きな話でなくても、例えば医療において、弱者である「患者」などは「表現の自由」を行使しにくい。自分の病気の治療方法、介護のされ方、納得の行く人生の終わり方について、自分なりに思うことがあってもそれをなかなか口に出せない状況があるのではないかと思う。医師に気を使い、家族や介護関係者に気兼ねして、自分の命や人生に関わることについても、妥協したり諦めたりすることもある。だがすべての人が尊厳を持った対等な存在として尊重されなければ、本当の共生社会やノーマライゼーション社会が実現できているとは言えない。その認識は重要である。
一方で、多数派や強者の人々も、自らがそうした存在であることを自覚せず、自らの「表現の自由」を少数派や弱者に無意識に押し付けていることが多い。そうした行為が彼らの人権や生存権を圧迫し、「表現の自由」を否定することにつながることを、もっと理解することが必要である。自由の平等性や対等性は、相手の状況や立場をきちんと考慮した上で、思いやりと節度を持って用いることで、はじめて保障されるものなのだ、と私は考える。(794字)
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