筆者は、世界の最後の生き残りである自分の死後に世界が存在し続けると確信を抱くことはおかしいと考えている。なぜなら世界の存在に対する確信の根拠は自分の「変様態」すなわち「他我」の提供する情報に基づく自分の対象認識であるのに、「他我」を生み出し認識を行う最後の存在である自分が存在しないなら、世界が存在し続けるという確信を持つことは誰にもできないからである。それでも世界が存在し続けると確信するならば、それは「幽霊」が自分の代わりに「他我」を生み出し、世界に対する対象認識を行っている、ということになる。そんな「幽霊」などいるはずがない。だから「おかしい」のである。
しかし私はおかしいとは考えない。たしかに自分にとって、自分がいなくなれば世界の存在に対して認識しようがない以上、その存続の根拠は失われている。だが人間は長い歴史の中で限りない生死を繰り返しながら、時間や場所や世界といった事物の存在を支える基盤が死後も存続することを確認し、「普遍的事実」として受け入れたのである。フッサールが語っているのはあくまでも「個人」としての認識であるが、その認識はこれまで生きてきた全ての人間が所有するものである。その認識主体の集合体が社会や人間と呼ばれるものであり、社会や人間として得られた認識は、言葉を通して各個人に共有されている。
だから人間が世界の存在を認識する際には、その根拠は単に自分の「変様態」に支えられているだけではなく、これまで生きてきた無数の「人間=幽霊」と現在生きている「他者」によって支えられている。それは単なる認識ではなく、「事実」として客観性と普遍性を持つ。この客観性や普遍性は、人間の絶滅後にこの世界が存在することを「想像」できるということによって逆に保証されている。これまで存在し、現に存在しているものは、これからも存在する。それを人間は「想像(=未来の幽霊)」によって認識できるのである。(797字)
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